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平成28年8月3日「近代土木遺産巡り現場研修」和歌山

掲載日:2016年8月3日活動報告 , 近代土木遺産巡り現場研修

和歌山県下の土木遺産を見学

建設コンサルタンツ協会(建コン協会)近畿支部主催・あすの夢土木共催の「現場研修会 ~近代土木遺産の現場研修in和歌山~」が、8月3日に行われました。
この現場研修会は、今も現役で人々の暮らしを支えている土木遺産からその歴史と土木の重要性を学ぶとともに、将来に向けたインフラ(社会基盤)について考えることを目的に開催しています。
今回の現場研修は、県下に土木遺産が広く点在する和歌山県を選択。昭和10年代に完成し、戦災も受けた寄合橋、大正時代に完成した築90年の南海本線紀ノ川橋梁、紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島の旧日本軍の砲台跡を見学しました。
参加した建コン協会支部会員とその家族およびあすの夢土木会員合わせて約80人が土木遺産を通して土木の重要性を学びながら夏休みの楽しいひとときを過ごしました。

築70歳、戦災の被害も受けた寄合橋を見学

最初に訪れたのは、和歌山城の外堀一堀川に架かる寄合橋。1941年に完成したアーチ橋で築70年を経て老朽化が著しい。戦時中の和歌山大空襲では焼夷弾を数多く受けました。参加者たちは、説明者からの戦時中での出来事に耳を傾け、今もって立派に役割を果たしている姿に関心を寄せていました。

寄合橋

明治・大正時代の遺産 南海本線紀ノ川(上り、下り)橋梁を見学

その後、南海本線紀ノ川橋梁を見学しました。最初に完成したのは上り線側(橋長627m)で、明治36年に完成しました。設計はアメリカ人技術者によるものです。下り線側は、大正11年に完成。設計から工事まで全て国産で作られました。参加者たちは、説明者からの古き時代の説明に耳を傾けながら、橋の雄姿を記念写真に収めていました。

紀ノ川橋梁

紀ノ川橋梁の橋脚部

紀淡海峡防備の要塞島「友ヶ島」の旧陸軍砲台跡を見学

このあと、加太港から船に乗り、約20分で友ヶ島に到着。昼食の後、現地ガイドとともに、旧日本軍の砲台跡や弾薬庫など軍事施設を歩いて巡りました。
紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島は、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島の総称です。

砲台跡を目指して坂道を上る参加者

明治時代に旧日本軍により外国艦隊の大阪湾への侵入を防ぐために沖ノ島、虎島に砲台等の軍事施設が作られました。第二次世界大戦までは、要塞施設として一般人の立入は禁止され、また当時の地図にも記載されませんでした。戦争が終わった後、砲台は取り壊され大砲は処分されましたが、その後、島全体が瀬戸内海国立公園に指定されたため、砲台跡や弾薬庫は良好な状態で残っています。
当日は、真夏の晴天の中、途中、途中で島の自然の話や軍事施設についてガイドの話を聞きながら、島の頂上にある砲台跡等を目指し、汗だくで急な坂道を登っていきました。
砲台等に通じる頂上への道は、急な坂道。当時、軍事道路として開削されため、道幅は広く整備されています。

友ヶ島の自然植物についてガイド説明を聞く参加者

坂道の途中にある敵攻撃用の洞窟

坂道の途中には、敵攻撃のための小さな洞窟がいくつもあり、参加者も熱心に写真に収めていました。

兵舎跡

砲台に関係する施設は、当時の陸軍が砲台の煉瓦構造物をイギリス式積みに統一していたため、第3砲台の弾薬庫もイギリス式積みの煉瓦造りできています。

第3砲台の弾薬庫跡を見学する参加者

第3砲台弾薬庫跡の施設内の状況

島内には、第二次世界大戦まで使用された砲台が6箇所ありましたが、第3砲台はその中では最大の規模でした。

第3砲台跡

水が溜まった砲台跡を見学する参加者

島の頂上から沖ノ島野奈浦を望む

普段はなかなか訪れる機会がない友が島の軍事施設に、参加者達はガイドの説明を聞きながら昔を思い巡りながら、興味深く見学していました。
このすばらしい見学会を企画・お世話いただいた建設コンサルタンツ協会近畿支部の技術部会技術委員の方々、並びに地域部会和歌山地域委員会の方々に改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。

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